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参禅会だより

令和5年4月降誕会報告

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IMG 3300JPG 1令和5年4月8日(土)午後2時から龍泉院本堂で降誕会が催されました。
本堂の正面に花御堂が置かれ、甘茶で満たされた灌仏盤と呼ばれる器の中に、生まれたばかりのお釈迦さまが安置されていました。
導師は明石住職、送迎は佐藤さん、侍者は松井さん、侍香は山桐さんが務められました。
殿鍾三会で参禅会員は本堂に入堂し、七下鍾が打たれ導師一行が入堂されました。
導師から釈尊の生誕を奉祝する法語が述べられ、『般若心経』を全員でお唱えし、杉浦さんが朗々と回向文を読み上げられ、普同三拝の後、導師一行は退堂して降誕会の法要は円成しました。
その後、明石方丈様から「逆境をプラスに変える」と題してのご法話がありました。

山野草のオオバコ(大葉子、車前草)は動物に踏みつけられることによって繁殖する植物です。まさに逆境をプラスに変える植物です。
『正法眼蔵』「説心説性」の巻には、「いまの一當は、むかしの百不當のちからなり、百不當の一老なり。」というお言葉があり、逆境にあっても精進・努力を継続して行くことの大切さが説かれています。愚直に努力して行くことによって、やがて結果がついてくるのです。

次に生物学者で青山学院大学教授であり、大のフェルメール好きの福岡伸一氏の「動的平衡」について、次のようなご紹介がありました。

生物の絶え間ない物質、エネルギー、情報交換。それは自らを壊しつつ、創り変えることでなされているのです。自ら壊すのは、エントロピー増大の法則に対抗するために、常に新しく創り変えなければならないからです。
生命とは分解と合成を繰り返し、あやういバランスを保つ動的平衡のことであると、福岡伸一氏を述べているのです。
「説心説性」の巻には続けて、「佛道は、初發心のときも佛道なり、成正覺のときも佛道なり、初・中・後ともに佛道なり。」とあります。生命活動とは分解と合成を止めないことだとお話しましたが、佛道も絶えず行じ続けなければなりません。従って、佛道も動的平衡であると言えるのではないでしょうか。

以上が「逆境をプラスに変える」のご法話でした。ご法話の後に、小畑代表から添菜されたお供物をいただきました。小畑代表に感謝・感謝です。

令和5年3月報告

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今月の提唱

『正法眼藏』「谿聲山色」の巻(2)

この居士の悟道せし夜は、そのさきの日、總禅師と無情説法話を参問せしなり。禅師の言下に飜身の儀いまだしといへども、谿聲のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。しかあればいま谿聲の居士をおどろかす、谿聲なりとやせん、照覺の流瀉なりとやせん。うたがふらくは照覺の無情説法の語ひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの聲にみだれいる。たれかこれ一升なりと辨肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相清浄身を急著眼せざらん。
また香厳智閑禅師かつて大潙大圓禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、なんぢ聡明博解なり。章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。

今月の所感

筆者は今月の定例参禅会を所要の為、お休みしました。従って今月の所感は休止させていただきます。来月のご提唱をお聞きして、補完的に所感を述べることがあるかもしれません。

令和5年1月報告

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今月の提唱

『正法眼藏』「徧參」の巻(3)

IMG 3279JPG 1倶胝参天龍得一指頭は、遍参なり、倶胝唯竪一指は、遍参なり。
玄沙示衆云、我与釈迦老子同参。
時有僧出問、未審、参見甚麼人。
師云、釣魚船上謝三郎。
釈迦老子参底の頭正尾正、おのづから釈迦老子と同参なり。玄沙老漢参底の頭正尾正、おのづから玄沙老漢と同参なるがゆえに、釈迦老子と玄沙老漢と同参なり。釈迦老子と玄沙老漢と、参足・参不足を究竟するを、遍参の道理とす。釈迦老子は玄沙老漢と同参するゆえに古仏なり、玄沙老漢は釈迦老子と同参なるゆえに児孫なり。この道理、審細に遍参すべし。
釣魚船上謝三郎、この宗旨、あきらめ参学すべし。いはゆる釈迦老子と玄沙老漢と、同時同参の時節を遍参功夫するなり。釣魚船上謝三郎を参見する玄沙老漢ありて同参す、玄沙山上禿頭漢を参見する謝三郎ありて同参す。同参・不同参、みづから功夫せしめ、他づから功夫ならしむべし。玄沙老漢と釈迦老子と同参す、遍参す。謝三郎と与我と参見甚麼人の道理を、遍参すべし、同参すべし。いまだ遍参の道理現在前せざれば、参自不得なり、参自不足なり、参他不得なり、参他不足なり、参人不得なり、参我不得なり、参拳頭不得なり、参眼睛不得なり、自釣自上不得なり、未釣先上不得なり。
すでに遍参究尽なるには、脱落遍参なり。海枯不見底なり、人死不留心なり。海枯といふは、全海全枯なり。しかあれども、海もし枯竭しぬれば、不見底なり。不留全留、ともに人心なり。人死のとき、心不留なり。死を拈来せるがゆえに、心不留なり。このゆえに、全人

令和5年2月報告

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今月の提唱

『正法眼藏』「谿聲山色」の巻(1)

IMG 1947JPG 2阿耨菩提に伝道受業の仏祖おほし、粉骨の先蹤即不無なり。断臂の祖宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各各の脱殻をうるに、従来の知見解会に拘牽せられず、曠劫未明の事たちまちに現前す。恁麼時の而今は吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、仏眼も覰不見なり。人慮あに測度せんや。
大宋国に東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆海の真龍なりぬべし、仏海の龍象を学す。重淵にも游泳す、層雲にも昇降す。あるとき盧山にいたれりしちなみに、渓水の夜流する声をきくに悟道す。偈をつくりて常總禅師に呈するにいはく、
谿声便是広長舌、   《谿声便ち是れ広長舌、
山色無非清浄身、   山色清浄身に非ざること無し。
夜来八万四千偈、   夜来八万四千偈、
他日如何挙似人。   他日如何が人に挙似せん》
この偈を總禅師に呈するに、總禅師然之す。總は照覚常總禅師なり、總は黄龍慧南禅師の法嗣なり、南は慈明楚円禅師の法嗣なり。
居士あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに、法衣仏戒等をもてす。居士つねに法衣を搭して修道しき。居士仏印にたてまつるに無価の玉帯をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。
しかあれば、聞谿悟道の因縁さらにこれ晩流の潤益なからんや。あはれむべしいくめぐりか現身説法の化儀にもれたるがごとくなる。なにとしてかさらに山色をみ、谿声をきく。一句なり

令和4年12月報告

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今月の提唱

『正法眼藏』「徧參」の巻(2)

IMG 3272JPG 1入畫看よりこのかた六十五百千萬億の轉身徧参す。等閑の入一叢林出一叢林を徧参とするにあらす。全眼睛の参見を徧参とす。打得徹を徧参とす。面皮厚多少を見徹する、すなはち徧参なり。
雪峰道の徧参の宗旨、もとより出嶺をすすむるにあらす、北往南来をすすむるにあらす。玄沙道の達磨不来東土、二祖不往西天の徧参を助發するなり、たとへはなんそ徧参にあらさらんといはんかことし。
玄沙道の達磨不来東土は、来而不来の乱道にあらす、大地無寸土の道理なり。いはゆる達磨は、命脈一尖なり。たとひ東土の全土たちまちに極涌して、参侍すとも轉身にあらす。さらに語脈の翻身にあらす。不来東土なるゆゑに、東土に見面するなり。東土たとひ佛面祖面相見すとも来東土にあらす、拈得佛祖失却鼻孔なり。
おほよそ土は東西にあらす、東西は土にかかはれす。二祖不往西天は、西天を徧参するには、不往西天なり。二祖もし西天にゆかは、一臂落了也。しはらく二祖なにとしてか西天にゆかさる。いはゆる碧眼の眼睛裏に跳入するゆゑに、不往西天なり。もし碧眼裏に跳入せすは、必定して西天にゆくへし。抉出達磨眼睛を徧参とす。西天にゆき東土にきたる、徧参にあらす。天台南嶽にいたり、五台上天にゆくをもて、徧参とするにあらす。四海五湖、もし透脱せさらんは、徧参にあらす。四海五湖に往来するは、四海五湖をして徧参せしめす、路頭を滑ならしむ、脚下を滑ならしむ、ゆゑに徧参を打失せしむ。

令和5年2月涅槃会報告

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IMG 8593JPG 1令和5年2月15日(水)午後2時から涅槃会が龍泉院本堂で行われました。明石方丈様が導師を務められ、送迎は佐藤さん、侍者は松井さん、侍香は山桐さんが務められました。
七下鐘が打たれ、導師一行が入堂しました。本堂には正徳5年(1715)に浅草の佛絵師市郎兵衛が制作し、当時の領主であった本多氏より寄進された「佛涅槃図」が掛けられていました。
法要が終わり、明石方丈様から「初心について」のご法話がありました。
小畑代表がご用意くださったお供物をいただき、時間のある人は雲堂で報恩の坐禅を一炷行いました。
また、法要の後に杉浦様から、龍泉院の裏山の竹で創作された「難逃之卯(なんのがれのう)」をいただきました。これは龍泉院の初不動(1月28日)際、参拝者に記念品としてお配りされたものです。
竹ひごをはじくと今年の干支の兎が飛び上がって、難を逃れるという仕組みです。可愛い兎が飛び上がる様子が何とも愛くるしいので、つい何度もパチンパチンと竹ひごをはじいてしまいます。
コロナ禍が一刻も早く退散することを祈願した縁起ものですが、これをなんと80個も制作されたそうです。まさに自未得度先度他の菩提心をおこされている杉浦さんならではの菩薩行だと思います。我家では有難くいただいて、リビングにお祀りしていますが、杉浦さんに感謝!感謝!です。

洞山良价禅師千百五十回遠忌の対談

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 石井修道先生と椎名宏雄老師との対談 

『中国禅と道元禅』〜中国禅とのつながりを考える~

   対談の動画はこちらから>>
1.対談のタイトルについて                   

龍泉院参禅会50周年の記念講演のタイトルは「洞山良价禅師の千百五十回遠忌に想う」と決まり、次に椎名老師と石井先生との対談のタイトルをどうするか、即ち、何についてお二人で話し合っていただくかについて、椎名老師と小畑代表と検討に入りました。

ご老師から石井修道先生の駒澤大学での退任記念講演の論文が参考になるのではないかとのお話がありましたので、早速『駒澤大学佛教学部論集』第45号を取り出し読んでみました。タイトルは「中国禅と道元禅」でした。内容的には石井先生のご専門の中国禅宗史からみた場合、道元禅師の禅と中国禅とは、連続している面と非連続の面が見受けられると指摘され、連続面と非連続面について、それぞれ具体的に述べられた論文でした。
今回「洞山良价禅師千百五十回遠忌」を取りあげたのは、日本曹洞宗では中国禅の代表格である洞山良价禅師がいかに重視されていないか、即ち、中国禅と非連続である面を世に知らしめかったためでもあります。

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