12月10日(日)、今年も年末恒例の歳末助け合い托鉢が行われました。
午前12時半に長全寺さんの本堂前に集合し、『般若心経』一巻をお唱えしてから、「歳末助け合い托鉢」と書かれた旗を掲げ、首から浄財箱を吊るして、長全寺さんの山門を出ました。二列で柏駅まで歩いて行き、午後1時少し前に東口のペデストリアンデッキに到着、三列になって托鉢を開始しました。
開始してから20分ほどした時に、小さなお子様を二人連れたご家族がお見えになり、明石方丈様を初め全員の浄財箱に、小さなお子様が小銭を握りしめて、ご喜捨してくださいました。
ご立派なご家族だなと感心して見ていたら、河本さんの所にご家族全員が集まって行くので、河本さんの奥様と娘さんとお孫さん一行だとわかった次第です。そう言えば、昨年も河本さんのご家族がご喜捨に来られたことを想い出しました。
その後、坂牧さんも来られて全員の浄財箱にご喜捨されて行かれました。有難いことです。
今年の歳末助け合い托鉢は、温暖化のため例年になく温かく、陽が当たるところではジリジリと照り付けられ、暑いくらいでした。前を通り過ぎる若い人の中には、薄い半袖のTシャツ一枚で歩いている人もいました。
第41回成道会が12月3日(日)に行われました。お釈迦さまが菩提樹の下で12月8日の明けの明星をご覧になられ、お悟を開かれたことをお祝いするのが成道会です。今年は8日が金曜日なので、前倒しで3日の日曜日に行いました。
近年は地球温暖化で初冬も暖かい日が続いていますが、今年の成道会の朝は初冬らしく冷え込み、境内には薄く霜柱が立っていました。
午前8時半から成道会のリハーサルが行われ、9時から釈尊成道への報恩の坐禅を二炷行いました。坐禅の後、本堂に移り、殿鍾が三会打ち鳴らされ、続いて七下鐘が打たれて、明石方丈様を導師とする一行が入堂しました。
導師がご本尊に向って釈尊の成道を讃える頌を述べられ、続いて普同三拝、般若心経一巻を一同で諷誦し、維那が回向文を読み上げ、普同三拝をした後、導師との問答に移りました。
また、西天の祖師、おほく外道・二乘・國王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず、祖師に遠慮なきにあらず。初祖西来よりのち、嵩山に掛錫するに、粱武もしらず、魏主もしらず。ときに両箇のいぬあり、いはゆる、菩提流支三藏と光統律師となり。虛名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりも、なほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、祖師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、佛法の力量の、究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬを、わづらふことなかれ、うらむることなかれ。引導の發願すべし、汝是畜生、發菩提心、と施設すべし。先哲いはく、これはこれ人面の畜生なり。また、歸依供養する魔類もあるべきなり。前佛いはく、不親近國王・王子・大臣・官長・婆羅門・居士。まことに佛道を學習せん人、わすれざるべき行儀なり。菩薩初學の功徳、すすむにしたがふてかさなるべし。
またむかしより、天帝きたりて行者の志氣を試験し、あるひは魔波旬きたりて行者の修道をさまたぐることあり。これみな、名利の志氣はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲のふかく、廣度衆生の願の老大なるには、これらの障礙あらざるなり。修行の力量おのづから國土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辨肯すべきなり、かれに瞌睡することなかれ。愚人これをよろこぶ、たとへば癡犬の、枯骨をねぶるがごとし。賢聖これをいとふ、たとへば世人の、糞穢をおづるににたり。
また、心も肉も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心をもはらして前佛に懺悔すべし。恁麼するとき前佛懺悔の功德力、われをすくひて清淨ならしむ。この功德よく無礙の淨信・精進を生長せしむるなり。淨信一現するとき、自他おなじく轉ぜらるるなり。その利益あまねく情・非情にかうぶらしむ。その大旨は、ねがはくはわれたとひ過去の惡業おほくかさなりて、障道の因緣ありとも、佛道によりて得道せりし、諸佛諸祖われをあはれみて、業累を解脫せしめ、學道さはりなからしめ、その功德法門あまねく無盡法界に充滿彌綸せらん、あはれみをわれに分布すべし。佛祖の往昔は吾等なり、吾等が當來は佛祖ならん。佛祖を仰觀すれば一佛祖なり、發心を觀想するにも一發心なるべし。あはれみを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり。
このゆゑに龍牙のいはく、昔生未了今須了、此生度取累生身。古佛未悟同今者、悟了今人卽古人。《昔生に未だ了ぜずは今須らく了ずべし、此生に累生身を度取す。古佛も未悟なれば今者に同じ、悟了せば今人卽ち古人なり》しづかにこの因緣を參究すべし、これ證佛の承當なり。
かくのごとく懺悔すれば、かならず佛祖の冥助あるなり。心念身儀發露白佛すべし、發露のちから、罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり。正修行のとき、谿聲谿色、山色山聲、ともに八萬四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不借すれば、谿山また恁麼の不惜あり。たとひ谿聲山色八萬四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは、夜來なりとも谿山の谿山を擧似する盡力未便ならんは、たれかなんぢを谿聲山色と見聞せん。
正法眼蔵 谿聲山色
爾時延應庚子結制後五日在觀音導利興聖寶林寺示衆
いはんやはじめて佛道を欣求せしときのこころざしをわすれざるべし。いはく、はじめて發心するときは、他人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、ただひとすぢに得道をこころざす。かつて國王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるにいまかくのごとくの因縁あり、本期にあらず、所求にあらず。人天の繋縛にかかはらんことを期せざるところなり。しかあるをおろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、佛法の功徳いたれりとよろこぶ。國王大臣の歸依しきりなれば、わがみちの現成とおもへり。これは學道の一魔なり、あはれむこころをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。
みずや、ほとけののたまはく、如来現在、猶多怨嫉の金言あることを。愚の賢をしらず、小畜の大聖をあたむこと理かくのごとし。
おほよそ初心の情量は、佛道をはからふことあたはず、測量すといへども、あたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟に究盡なきにあらず、徹地の堂奧は、初心の淺識にあらず、ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづね、知識をねがふには、從天降下なり、從地涌出なり。その接渠のところに、有情に道取せしめ、無情に道取せしむるに、身處にきき、心處にきく。若將耳聽は家常の茶飯なりといへども、眼處聞聲これ何必不必なり。見佛にも、自佛佗佛をもみ、大佛小佛をみる。大佛にもおどろきおそれざれ、小佛にもあやしみわづらはざれ。いはゆる大佛小佛を、しばらく山色谿聲と認ずるものなり。これに廣長舌あり、八萬偈あり、擧似逈脱なり、見徹獨抜なり。このゆゑに、俗いはく、彌高彌堅なり、先佛いはく、彌天彌綸なり。春松の操あり、秋菊の秀ある、卽是なるのみなり。
善知識、この田地にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに爲人の儀を存せん、人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん。なにの艸料かあらん、いかが根源を截斷せん。
またこの日本國は海外の遠方なり。人のこころ至愚なり。むかしよりいまだ聖󠄁人うまれず、生知うまれず、いはんや學道の實士まれなり。道心をしらざるともがらに、道心ををしふるときは、忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、他人をうらむ。
おほよそ菩提心の行願には、菩提心の發未發、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし、いはんやみづから口稱󠄁せんや。いまの人は、實をもとむることまれなりによりて身に行なく、こころにさとりなくとも、他人のほむることありて、行解相應せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念すみやかに抛捨すべし。
學道のとき、見聞することかたきは、正法の心術なり。その心術は、佛佛相傳しきたれるものなり。これを佛光明とも、佛心とも相傳するなり。如來在世より今日にいたるまで、名利をもとむるを學道の用心とするににたるともがらおほかり。しかありしも、正師のをしえにあひて、ひるがへして正法をもとむれば、おのづから得道す。いま學道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるべきなり。たとへば、初心始學にもあれ、久修練行にもあれ、傳道授業の機をうることもあり、機をえざることもあり、慕古してならふ機あるべし、訕謗してならはざる魔󠄁もあらん。兩頭ともに愛すべからず、うらむべからず。いかにしてかうれへなからん、うらみざら