今月の提唱
『正法眼藏』「谿聲山色」の巻(5)
しるべし、山色谿声にあらざれば、拈華も開演せず、得髄も依位せざるべし。谿声山色の功徳によりて、大地有情同時成道し、見明星悟道する諸佛あるなり。かくのごとくなる皮袋、これ求法の志氣甚深なりし先哲なり。その先蹤、いまの人かならず參取すべし。いまも名利にかかはらざらん真実の參學は、かくのごときの志氣をたつべきなり。遠方の近來は、まことに佛法を求覓する人まれなり。なきにはあらず難遇なるなり。たまたま出家兒となり離俗せるににたるも、佛道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべしかなしむべし、この光陰ををしまず、むなしく黒暗業に賣買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。たとひ正師にあふとも、眞龍を愛せざらん。かくのごとくのたぐひ、先佛これを可憐憫者といふ。その先世に悪因あるによりてしかあるなり。生をうくるに爲法求法のこころざしなきによりて、眞法をみるとき眞龍をあやしみ、正法にあふとき正法にいとはるるなり。この身心骨肉、かつて從法而生ならざるによりて、法と不相應なり、法と不受用なり。祖宗師資かくのごとく相承してひさしくなりぬ。菩提心は、むかしのゆめをとくがごとし。あはれむべし、寶山にうまれながら寶財をしらず、寶財をみず、いはんや法財をえんや。もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因縁、みな菩提の行願となるなり。しかあれば、從來の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて発願すべし。
ねがはくはわれと一切衆生と、今生より乃至生生をつくして、正法をきくことあらん。きくことあらんとき、正法を疑著せじ、不信なるべからず。まさに正法にあはんとき、世法をすてて佛法を受持せん、つひに大地有情ともに成道することをえん。
今月の所感
今月の「谿聲山色」の巻のご提唱は、菩提心のすすめ・発菩提心について、道元禅師が述べられているところです。
菩提心とは真理心・真如心ということで、自己本来の姿、本来の生存の道理によって発する自己の本心ということです。
具体的には「菩提心とは無常を観ずる心これなり」(『大智禅師法語』)、また「菩提心をおこし佛道修行におもむく」(「説心説性」)となって、始めて真実の佛道を行ずることができるし、更に「自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり」(「発菩提心」)に至って菩薩道が現出するのです。
今月の「谿聲山色」の初めに、まず「しるべし」と記述されています。椎名老師は常々、「しるべし」の以下は大変重要なことが書かれているから、吟味して読むようにと言われていました。
しるべしに続いて、山色谿声によらなければ、釈尊が一枝の金波羅華を拈じて、言説を超えた佛法の端的を示したところ、迦葉のみがその密意を知ってにっこりと微笑して、大法を相続したことや、二祖慧可が達磨の前に至って礼拝し、自位によりて立った時、達磨は「汝吾が髄を得たり」と言った得随の舞台もあり得なかったはずである、とあります。
さらに、谿聲山色の功德によって、釈尊は明星がキラリと光るのを見て悟られ、私と大地と有情、即ち現象界一切が同寺に成道することになった。そのような先例を今の人は必ず参究羽しなければならないと続きます。この箇所を読んでいると、宇治の興聖宝林寺の夏安吾で、道元禅師が大衆に、谿聲山色の功德をこれでもかこれでもかと、力説しておられる姿を彷彿とさせるものがあります。
しかし、実際はそのような参究心のある人は少なく、法のために法を求める志が無いので、正法に遇っても正法に嫌われ、また法に従って生じた身であるのに、その真実に従っていないから、法と相応しなく、法を受用することができなくなった人ばかりなのです。今や菩提心は昔の夢を説くにひとしいものになったと、道元禅師は歎いておられます。
道元禅師の時代が既に「むかしのゆめをとくがごとし」ならば、現代は一体何を説くが如しになるのでしょうか・・・・
さてこの後に、『修証義』第四章「発願利生」でおなじみの有名な語句、「もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因縁、みな菩提の行願となるなり。しかあれば、從來の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて発願すべし。」が続き、発菩提心の必要性がコンコンと説かれています。
今月の「谿聲山色」のご提唱の最後に、明石方丈様から「発菩提心」について次のようなお話がありました。
『華嚴經』に「初發心時便成正覺」という語句があります。菩提心をおこした初発心の時が大切なのですが、初発心の時の気持ちを保ち続けることは、大変困難なことです。初発心の時こそ、巧夫辦道すべきだと思います。
江戸末期の吉田松陰に次のような言葉があります。
「初一念、名利の為めに初めたる学問は、進めば進む程其の弊著れ、博学宏詞を以て是を粉飾すと云えども、遂に是れを掩うこと能わず」。
(初一念を名誉や利益のために始めた学問は、進めば進むほど、その弊害が現れてくる。広い知識や、優れた文章で飾っても、この弊害をかくし通すことはできない。)
明石方丈様が示された吉田松陰の言葉は、今月の「谿聲山色」の巻の、「たまたま出家兒となり離俗せるににたるも、佛道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべしかなしむべし」、と軌を一にするところではないでしょうか。
今月のお知らせ
梅雨真っ盛りで、曇りか小雨の日々がつづいています。本堂の裏に当たりますので分かりづらいかもしれませんが、龍泉院の裏山には今、アジサイが見事に咲き誇っています。龍泉院のアジサイの群生は、作務班が手入れされていますので一見の価値があります。
佐藤年番幹事からのお知らせ
・今年も施食会の受付のお手伝いがありますので、ご協力をお願いいたします。
・一日接心の参加者は16名でした。
齋藤月番幹事からのお知らせ
坐禅指導(龍泉院参禅会独自のやり方を含みます)について
・堂内での低頭は合掌してするのか、叉手のままで良いのか?
堂内に入ったら最初に文殊菩薩様へ叉手のまま低頭する。文殊菩薩様の横を通る時には叉手のまま軽く会釈する。経行の終わりには叉手のまま低頭する。坐禅の終了時と警策をいただいた時は合掌低頭する。
・隣位問訊について。坐禅をする単についたら、まず坐蒲をもんで両隣の人にそれとなく知らせ、それから隣位問訊する。両隣の人は坐る人の気配を感じたら合掌する。対坐問訊に対しては後ろの人は合掌する必要はない。
・スリッパの扱いについて。脱ぐ時は手を使わず足できれいにそろえても良い。履く時は手で一度床にそろえて置いてから履く。
・検単の際の合掌を解くタイミングについて。堂頭が通り過ぎたらすぐ合掌をやめて良い。
・直堂の動作について。直堂は水を替えたり線香を立てる場合は、必ず文殊菩薩様の裏を通り、文殊菩薩様の左に立ち、合掌してから行う。直堂は堂内入ったら直接坐位に行って良く、堂内を大きく回る必要はない。
・止静鐘、経行鐘、放禅鐘の打ち方について。禅定を妨げないよう、鐘は優しい音を心がけ、強く打たない。間隔は長すぎないよう、前の音がする間に次の鐘を撞く。止静鐘の打ち初めのタイミングは直堂が決める。二炷目の止静鐘は堂頭が坐してから撞く。
杉浦『明珠』編集委員長からのお知らせ
・椎名老師は明日(6月26日)「千葉・柏リハビリテーション病院」を退院され、大黒様と一緒に「協栄江戸川台年金ホーム」に入居されます。身体が回復したら東堂に戻るお気持ちがあります。
・『明珠』80号の特集企画として、アンケートを実施いたします。
➀『明珠』に対する思い。②『明珠』の中で最も思い出に残る記事。③『明珠』の今後についての提言。
上記についてのお考えをワードで作成し、7月23日までにメールで杉浦(このメールアドレスはスパムボットから保護されています。閲覧するにはJavaScriptを有効にする必要があります。)までお送りください。
・『明珠』80号の別冊として、1号〜80号までの索引を付けますので、索引を活用して、是非過去の『明珠』を龍泉院のHPでご覧ください。
五十嵐『明珠』編集委員からのお知らせ
・『明珠』80号の特別寄稿を曹洞宗 専門僧堂である松渓山智源寺の高橋信善老師にお願いしました。高橋老師は明石方丈様の師匠であり、椎名老師ともご昵懇の間柄の方です。
小畑代表からのお知らせ
・一日接心の時の行茶は、お役の方には準備等でご足労をお掛けしましたが、大変良かったと思います。来年も続けて欲しいと思います。
新しく参加された杉野さんの感想
・龍泉院檀家の杉野です。第一回の参禅会に故高間利介代表に誘われて坐って以来、久しぶりの坐禅です。家業は息子に譲ったので都合がつけば参加いたします。
今月の司会者 佐藤修平
今月の参加者 19名
来月の司会者 佐藤修平