今月の提唱

『正法眼藏』「阿羅漢」の巻(2)

古云、我等今日、眞阿羅漢、以佛道聲、令一切聞。
いま令一切聞といふ宗旨は、令一切諸法佛聲なり。あにたた諸佛及弟子のみを挙拈せんや。有識有知、有皮有肉、有骨有髄のやからみなきかしむるを、令一切といふ。有識有知といふは、国土草木牆壁瓦礫なり。揺落盛衰、生死去来、みな聞著なり。以佛道聲、令一切聞の由来は、渾界を耳根と参學するのみにあらす。
釈迦牟尼佛言、若我弟子、自謂阿羅漢辟支佛者、不聞不知諸佛如来但教化菩薩事此非佛弟子、非阿羅漢、非辟支佛。
佛言の但教化菩薩事は、我及十方佛、乃能知是事なり。唯佛與佛、乃能究盡諸法實相なり。阿耨多羅三藐三菩提なり。しかあれは菩薩諸佛の自謂も、自謂阿羅漢辟支佛者一斉なるへし。そのゆゑはいかん。自謂すなはち聞知諸佛如来、但教化菩薩事なり。

古云、聲聞経中、称阿羅漢、名為佛地。
いまの道著、これ佛道の證明なり。論師胸臆の説のみにあらす、佛道の通軌あり。阿羅漢を称して佛地とする道理をも参學すへし。佛地を称して阿羅漢とする道理をも参學すへきなり。阿羅漢のほかに、一塵一法の剰法あらす、いはんや三藐三菩提あらんや。阿耨多羅三藐三菩提のほかに、さらに一塵一法の剰法あらす。いはんや四向四果あらんや。阿羅漢の擔来する諸法の正當恁麼時、この諸法、まことに八両にあらす半斤あらす。不是心、不是佛、不是物なり。佛眼也覰不見なり。八萬劫の前後を論すへからす。抉出眼睛の力量を参學すへし。剰法は渾法剰なり。

 

今月の所感

今月の志納金は113,500円と、これまでにない金額でした。先月の定例参禅会の時に、参禅会の財政支援をお願いしたところ、これだけもの温かい志納金をお寄せ下さいました。中には体調不良で参禅会に参加できないので、お友達に志納金を託してくださった方もいらっしゃいました。まことに有難いことです。今月の参加者は20名(うち1名は新規参禅者)のところ、志納金が10万円を超えたことの重みは、しっかりと受け止めなければならないと思います。

 

さて、今月の「阿羅漢」の巻のご提唱は、「古云、我等今日、眞阿羅漢、以佛道聲、令一切聞(我らは今日、眞の阿羅漢なり、佛道聲を以て、一切をして聞かしむ)。」から始まります。この語句は『法華経』「信解品」の「我等今者,真是聲聞,以佛道聲,令一切聞。我等今者,真阿羅漢,於諸世間,天人魔梵,普於其中,應受供養。」によるものです。
この語句について道元禅師は、一切をして聞かしめんというのは、一切の諸々の存在をして佛の声を聞かしめるという意味である。一切の者とは、けっして諸々の佛や弟子のみでなく、意識あるもの、知覚あるもの、皮肉骨髄のあるものどもにも、聞かしめるのである。さらに意識や知覚のあるものとは、人間や動物だけでなく、国土草木、牆壁瓦礫までも含むのである、と拈提されています。
国土草木、牆壁瓦礫は佛を離れた存在ではなく、佛の識知なのですね。これは「山水経」など、いたる所で道元禅師は説かれています。
〔如来は菩薩を教化する〕
次に、「釈迦牟尼佛言、若我弟子、自謂阿羅漢辟支佛者、不聞不知諸佛如来但教化菩薩事此非佛弟子、非阿羅漢、非辟支佛(釈迦牟尼佛言く、「若し我が弟子、自ら阿羅漢・辟支佛なりと謂て、諸佛如来の但だ菩薩のみを教化したまう事を聞かず知らずば、此れ佛弟子に非ず、阿羅漢に非ず、辟支佛に非ず)。」とありますが、これは『法華経』「方便品」にある言葉です。
「もし我が弟子にして、みずから阿羅漢だ、辟支佛だと言って、諸々の佛・如来はただ菩薩を教化することを聞かず知らないならば、それはもう我が弟子でもなく、阿羅漢でまなく、また辟支佛でもない。」とお釈迦さまが仰られたのです。
このお言葉について、道元禅師は次のように拈提されています。
佛が「ただ菩薩を教化する」と言ったのは、つまり「我および十方佛、すなわちよくこの事を知る」という意味であり、あるいは「ただ佛と佛のみが、すなわちよく諸法の実相を究めつくす」ということであり、それが最高無上の悟りに他ならない。
従って、そのようであるならば、大乗でいう菩薩・諸佛も、小乗でいう阿羅漢・辟支佛というのも、結局同じといえるだろう。それは結局、諸仏・如来はただ菩薩を教化すること聞いて知っているはずだからである、と道元禅師は述べておられます。
凄いですね、道元禅師は大乗でいう菩薩・諸佛も、小乗でいう阿羅漢・辟支佛も同じであると断言されているのです。
次に『摩訶止観』巻3の言葉、「聲聞経中、称阿羅漢、名為佛地(聲聞経の中には、阿羅漢を称じて、名づけて佛地となす)」を取りあげています。
これは佛の言葉を証するところで、一論師が思い測って言うところではない。これは佛教の全てに通ずるルールであると、道元禅師は断言されています。
佛地とは佛の境地のことですが、道元禅師は、佛地とは阿羅漢のほかのなにものでもない。まして佛地のほかに正覚がある道理もなく、最高無上の悟りのほかのなにものでもない、と述べられています。
従って、阿羅漢の担い来った諸法が仏法である時には、それはもはや重い軽いなど、分量で量る問題ではない。心でもなく、佛でもなく、物でもない(不是心、不是仏、不是物は南泉普願の言葉で、『碧巌録』第28則「南泉不説」に見られます)。そんなものは、佛眼もまた眼を細めて注意深く見る所ではない。ただ、正法の眼睛をえぐり出すような力を学ぶべきである。そのほかに余計なものはない、と締め括られています。
今回のご提唱の箇所は、まさに「阿羅漢」の巻のキーポイントとなるところだと思います。
小乗仏教では、阿羅漢は世の供養に応ずる応供であり、既に学ぶべきところがない無学位という、仏道修行の四つの段位の最高位に揚げられています。これに対して、大乗仏教では阿羅漢道を批判して、あらたに菩薩道をたてています。
大乗仏教に身をおく道元禅師は、阿羅漢という名前も、その考え方も否定せず、「阿羅漢を称して、名づけて佛地となす」ことが、「仏道の通軌なり」と述べておられるのです。
さらに、「阿羅漢を称して佛地とする道理をも参學すへし。佛地を称して阿羅漢とする道理をも参學すへきなり。阿羅漢のほかに、一塵一法の剰法あらす、いはんや三藐三菩提あらんや。」と、阿羅漢の実現する境地を、そのほかに仏教の究める所はない。それこそが佛地すなわち佛の境地であり、それこそが最高無上の悟りであるとしているのです。このように道元禅師は、思い切って阿羅漢を高く評価されていることが良く分かります。
考えてみれば、仏道にはもともと大乗も小乗もなく、お釈迦様の前では、仏弟子である菩薩も阿羅漢も違いはないということになるのでしょうか。

松井年番幹事からのお知らせ

・今回、鈴木かつやさんが新しく参加されました。南柏から自転車で来られたそうです。

杉浦50周年記念行事実行委員からのお知らせ

・現在、在家得度式を受けることを申込まれた方は21名です。新規得度者は11名、再度得度者は10名です。この他に椎名老師、明石住職、杉浦、小林が参加します。
・今回の在家得度式のアルバム作成費や昼食代は、篤志家の方の添菜で賄います。

五十嵐洞山良价禅師1150回遠忌担当からのお知らせ

・現在の参加申込者は18名です。100名には程遠い数です。まだ参加申込をなされていない方は、早く申込をしてください。
・家族や友人・知人にもLINEやメールなどを使ってお知らせください。
・9月と10月の定例参禅会の茶話会の後に、記念法要で諷誦する『参同契』と『宝鏡三昧』の練習をします。希望される方はお残り下さい。『参同契』・『宝鏡三昧』については、45周年事業で出版した『やさしく読む参同契・宝鏡三昧』をお読みください。

小畑二郎様からのお知らせ

・清水秀男さんが療養で入院していましたが、退院されてリハビリ中です。清水さんからは多額の志納金をいただきました。

小畑代表からのお知らせ

・50周年事業について皆様からのご協力に感謝します。

明石方丈様からのお知らせ

・8月16日の施食会には多数の方がお手伝いくださり無事円成いたしました。ご協力に御礼申し上げます。
・50周年行事について、コロナに注意しながら頑張ってください。

椎名東堂老師様からのお知らせ

・円相を描くために、銀座の鳩居堂で太い筆を購入しました。狸の毛です。
・『沼南の宗教文化編集』を出版しましたので、皆様にお配りします。特に付録の「禅の人間形成」をお読みください。

 

今月の司会者 松井 隆
今月の参加者 20名
来月の司会者 松井 隆