「今月の講義を聴いての感想」


参禅会 五十嵐嗣郎

今月の提唱

『正法眼藏』「身心學道」の巻(6)

IMG 3353JPG 1身學道といふは、身にて學道するなり、赤肉團の學道なり。身は學道よりきたり、學道よりきたれるは、ともに身なり。盡十方界、是箇眞實人體なり、生死去来、眞實人體なり。この身體をめくらして、十悪をはなれ八戒をたもち、三寶に帰依して、捨家出家する、眞實の學道なり。このゆゑに眞實人體といふ。後學かならす自然見の外道に同することなかれ。
 百丈大智禅師のいはく、若執本清淨本解脱自是佛、自是禅道解者、即属自然外道。
 これら閑家の破具にあらす、學道の積功累徳なり。●[趾-止+孛]跳して玲瓏八面なり、脱落して如藤倚樹なり。或現此身得度而為説法なり、或現他身得度而為説法なり、或不現此身得度而為説法なり、或不現他身得度而為説法なり、乃至不為説法なり。
 しかあるに棄身するところに揚声止響することあり、捨命するところに斷腸得髄することあり。

今月の所感

「身心學道」の巻は先月で心による学道が終わり、今月から体によって真実を学ぶところに入って行きました。仏道では体で真実をとらえることが仏道思想の基本となっていますので、今回から始まる〔身学道〕は仏教の一つの中心的な思想とも言えます。

 

最初に「身學道といふは、身にて學道するなり、赤肉團の學道なり」とあります。体で真実を学ぶということは、この血の通った肉体を使って真実を学ぶことであると示されています。

次に「身は學道よりきたり、學道よりきたれるは、ともに身なり」とあります。この生身の体は真実を学んでいる時に初めて体としての意味をもってくる。生身の体がただそこに存在するというだけでは、意味がないのです。真実をを学んでいる時に、我々の生身の体は意味あるものになってくるのです。

「盡十方界、是箇眞實人體なり、生死去来、眞實人體なり」。従ってこの世界・宇宙は全て真実の身体である。生まれ変わり死に変わる我々の日常生活というものも、真実なる身体の現れである。つまり真実を学んでいる時こそ、自分は本当に生きているんだと実感することができるということでしょう。

 

「この身體をめくらして、十悪をはなれ八戒をたもち、三寶に帰依して、捨家出家する、眞實の學道なり」。我々の体はコントロールしなければ、どのような悪い事をも犯すかもしれない。だから体をコントロールして「十悪をはなれを」、十悪とは殺生(衆生の生命を断つ)、偸盗(他の財物を盗み取る)、邪婬(妻妾でないものと性交渉を行う)、妄語(言葉によって他人を誑かす)、両舌(争いを構えさせ、仲違いさせる発言をする)、悪口(汚く罵って他者を悩ます)、綺語(飾り立てた無意味な言葉であり、道理に乖く)、貪欲(むさぼって満足することがない)、瞋恚(心に逆らうことについて忿怒を生じる)、邪見(正しい因果を撥する)のことで、このような十悪種をやらないように保つ。また「八戒をたもち」、八戒とは在家信者が六斎日に一日一夜、出家に準じて受持する八種の戒のことです。不殺生戒、不偸盗戒、不婬戒、不妄語戒、不飲酒戒、不塗飾香鬘舞歌觀聽戒(花飾りや香料を身につけず、また歌舞音曲を見たり聞いたりしない)、不眠坐高厳麗床戒(地上に敷いた床にだけ寝て、高脚のりっぱなベッドを用いない)、不食非時食戒(午後は食事をとらない)のことで、このような八種の戒律を犯さないようにする。あるいは「三寶に帰依して」、佛・法・僧の三宝に帰依し、「捨家出家する」、家庭生活というものを超越し、社会生活というものを超越する、これこそが「眞實の學道なり」、真実の道を学ぶということなのだと道元禅師は示されています。

 

IMG 3354JPG 1「このゆゑに眞實人體といふ」、このような形で真実を追い求めて行くところが、「眞實人體」というものである。本当の意味で人間の体ということができる。

「後學かならす自然見の外道に同することなかれ」、従ってこれから仏道を学ぶものは、何ら真実を学ぶ努力もしないで、ただ生きているだけでよいとする「自然見の外道」の考え方に同調してはならない。さまざまな悪い事もできる生身の体を、どう使って行くかが〔身学道〕という意味なのです。

 

次に百丈懐海禅師の言葉が引用されています。百丈禅師といえば、「一日不作、一日不食」として、作務を重視した方として知られています。百丈禅師は作務を重視する立場から『百丈清規』を制定し、禅宗発展に偉大な功績を残された方です。
我が龍泉院参禅会が百丈山を訪れたのは平成16年9月です。赤土の泥道で動かなくなったマイクロバスを、皆で手押しして、やっと辿りついた百丈山でした。今は中国の道路状況も改善され。百丈山まで高速道路が通じているようです。
その百丈山の大智禅師が「若執本清淨本解脱自是佛、自是禅道解者、即属自然外道」といわれました。この言葉は『天聖廣燈録』の百丈懐海禅師の章に見える言葉です。
大智禅師は、修行というものなしに、我々は本来清浄だとか、我々は本来解脱しているとか、我々は本来仏であるとか、修行を通して得られるものも、本来は修行しないでも得られると考えているのなら、それは自然見の外道であるということです。仏道と自然見の外道との違いは、仏道修行が有るか無いかです。修行を通して初めて仏となりうるのです。

 

本来清浄だという考え方を見ると、私は神秀と慧能の悟りについての偈を思い出します。神秀の偈は、「身是菩提樹、心如明鏡臺。時時勤拂拭、莫使惹塵埃(身は是れ菩提樹、心は明鏡臺の如し。時時に勤めて拂拭して、塵埃を惹かしむること莫れ)」というものです。
一方慧能の偈は、「菩提本無樹、明鏡亦非臺。本來無一物、何處惹塵埃(菩提は本より樹無し、明鏡も亦た臺に非ず。本來無一物、何れの處にか塵埃を惹かん)」というものです。
神秀は、「心は明鏡台の如しとして、我々の本性というものは鏡のようだ、一点の曇りのないきれいな心が本性である」と頌しているのです。しかしそのきれいな鏡も塵がかかると鏡のきれいな面が現れないように、煩悩の塵がかかると心を晦ますので、「時々塵埃を拂拭して、塵埃が心の本性を晦まさないように努力して行かなければならない」と頌しているのです。
坐禅をするのは塵埃を拂うことであり、作務はその曇りを拭き去ることです。そしていつも本来の清浄無垢な鏡のような心で、毎日暮らして行かなければならないことを示されたものです。
これに対して慧能は、「心は本来無形なものだから、菩提樹などはありません。悟りに樹などはありません。心は明鏡台の如しと言っても、鏡などというものはありません。鏡の台さえもないのです。何もない心の中に飛び込んでみれば、本来無一物、塵埃など付けたくても付けるところが無いのです」と頌しているのです。本来無一物とは、単に何もないということだはなく、心に何も引っかかることがない、塵埃など無いことを示されているのです。


神秀の立場は北宗として漸悟を伝え、慧能の立場は南宗として頓悟を伝えています。佛教では元来心性清浄ということが説かれていますが、北宗は丁寧に鏡を磨き上げるように、徐々に心を奇麗にしてゆく修行であるのに対して、南宗はそのような鏡など元々無く、速疾に証悟を得、心地を開明するという違いがあります。

大智禅師は南宗系の流れをくむ方ですが、本来無一物と突っぱねるのではなく、北宗のいう清浄無垢な鏡のような心の存在を認めています。しかしそれは本来あるのではなく、修行することによって得られるものであると示されています。
禅宗は慧能による南宗禅の流れが主流となりましたが、南宗禅の中でも二つの派の考え方はお互いに影響を与えながら伝えられていることが、この大智禅師の言葉からも伺えるところです。

 

IMG 3350JPG 1ではまた「身心學道」の巻に戻ります。大智禅師の言葉を受けて道元禅師は、「これら閑家の破具にあらす、學道の積功累徳なり」とコメントしています。大智禅師の言葉は、「閑家の破具にあらす」、決して人なき家のやぶれ道具というような価値の低いものではない。「學道の積功累徳なり」、仏道の真実を学び、その結果が積み重なったところから発せられた言葉であるということです。
また、大智禅師の言葉のありようは、「●[趾-止+孛]跳して玲瓏八面なり」、大魚が一遍にとびはねて、あたり一面がすべて光輝くような状態である。また「脱落して如藤倚樹なり」、藤の蔓が木に寄りかかり極めて自然な状態のように、そのままで解脱しているようである。

 

「或現此身得度而為説法なり」。この語は『妙法蓮華経』卷7の中の「観世音菩薩普門品」の巻にある「應以佛身得度者、觀世音菩薩即現佛身而為說法」を転用した語です。この身体を現して得度すべき者には(この身体を現してその人の)為に説法するという意味です。
「或現他身得度而為説法なり」というのも同じように、他人の身体を現して得度すべき者には(他人の身体を現してその人の)為に説法する。時期とか周囲の環境によって、さまざまに姿を変えて説法するということです。
以下「或不現此身得度而為説法なり」、「或不現他身得度而為説法なり」など、要は相手とって一番救いとなる方法でもって法を説くということです。
あるいは「乃至不為説法なり」、ある場合には法を説かないというやり方で、人を救うこともある。

 

「しかあるに棄身するところに揚声止響することあり、捨命するところに斷腸得髄することあり」。法を説く時には様々な外見で行わられるけれども、声を揚げて声の起こるもとを知れば、響きを止めることができるように、我執や本執を棄てることによって、煩悩のうるさい響きを止めることができるし、臂を断って求法の赤心を示し、達磨に嗣法し、ついにその骨髄を得た二祖慧可のような心境に到達することもある。

 

今月から〔身学道〕になりました。大智禅師の言葉にもあるように、何ら真実を学ぶ努力もしないで、ただ生きているだけでよいとする「自然見の外道」の考え方に同調してはなりません。さまざまな悪い事もできる生身の体を、どう使って行くかが〔身学道〕の本当の意味であることを肝に銘じなければなりません。

今月のお知らせ

今年も早や半分が過ぎてしまいました。ついこの間、令和6年のお正月を迎えたとばかり思っていたのに、今年もあと残り6ヶ月です。この間わが故郷の石川県では、能登半島地震や北陸新幹線の敦賀までの延伸開業など、大きな出来事がありましたが、あっという間の6ヶ月でした。時間の経つのが年々早くなるように感じています。まさに「生死事大、無常迅速。各宜醒覚、慎勿放逸」が身に染みるこの頃です。

 

小畑(二)年番幹事からのお知らせ
・8月16日(金)には龍泉院の施食会がありますので、お手伝いをお願いいたします。
・若い人も今後、年番幹事を務めてくださることを希望します。

 

杉浦『明珠』編集委員長からのお知らせ
・『明珠』82号は作務特集です。原稿は7月末までにお願いします。

 

明石方丈様からのお知らせ
・梅雨に入ると梅雨特有のケガが多くなります。ご注意下さい。
・施食会受付の玄関当番をお願いしたいと思います。

 

今月の司会者 小畑二郎
今月の参加者 14名
来月の司会者 小畑二郎