石井修道先生の講演
「洞山良价禅師の千百五十回遠忌に想う」
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1.記念講演までの経緯
龍泉院参禅会50周年の記念行事について小畑代表と打ち合わせ、椎名老師に洞山良价禅師に関する記念講演をお願いし、次いで臨川書店の禅僧シリーズで『石頭』を上梓されている石井修道先生と椎名老師との対談を行うことで、小畑代表と基本的な合意ができました。
早速、小畑代表が椎名老師とこの基本案をご説明したところ、大筋ではご了解いただきましたが、洞山良价禅師に関する講演は、石井修道先生にお願いしたいとのことでした。
そこで石井修道先生にこのことをお願いしたところ、先生は椎名老師が『洞山』を上梓されていることからご遠慮されましたが、椎名老師からの強いてのご要望であることを申しあげて、ご了解をいただきました。
数日後、石井修道先生から記念講演のタイトルが「洞山良价禅師の千百五十回遠忌に想う」であるとのお知らせが入りました。
「洞山良价禅師千百五十回遠忌」の記念講演と対談のタイトルが固まった時点で、何日、どのような形で行うか、基本構想を作成しなければなりません。第1回の50周年実行委員会で10月30日に実施することが決まり、第2回の実行委員会で報恩坐禅と記念法要は午前中に行い、午後から記念講演と対談を行うことになりました。
早速チラシ作成に取り掛かりました。チラシの原案は杉浦さんにお願いし、第3回の実行委員会でチラシの原案を検討していただき、チラシ案が決定しました。
チラシを500部印刷して7月の定例参禅会で配布を開始し、記念講演・対談の参加者募集に取り掛かりました。
今回のチラシの参加応募欄には、齋藤正好さんが作成してくださったQRコードを印刷しました。QRコードは至る所で使用されていますが、龍泉院参禅会では初めてです。QRコードを使用すれば応募が簡単にできるので、当初、多くの参加応募があるものと期待していました。しかし参禅会員にはQRコードが慣れていない人が多いためか、思ったほどQRコードでの申し込みが少なく、少々がっかりしました。
8月に入り、本格的な参加者募集が始まりました。7月の定例参禅会の欠席者にはチラシを郵送したり、メールでも記念講演と対談のお知らせをいたしました。しかし8月末の定例参禅会の時点では、参加申込者が僅か18名でした。
これではいけないと、9月に入り、知人にメールで記念講演・対談をお知らせしたり、参禅会員でもまだ申し込まれていない方々に電話を掛けることにしました。さらに杉浦さんは龍泉院で行われた地域住民の「通いの場」で「歌声喫茶」を主催して、参加を呼び掛けてくださいました。榎戸さんは「柏市倫理法人会」の会員に参加を呼び掛けてくださいました。
このような努力の結果、9月の定例参禅会の時点でようやく参加申込者が60名に達し、10月の定例参禅会では75名になりました。しかし椎名老師からは、「これほど参加申込が少ないのは、これまでの記念行事では初めてです」との叱咤激励があり、最後の追い込みに取組みました。
「洞山良价禅師千百五十回遠忌」の前日、有志が集まり会場設営にあたりました。既に須弥壇には、杉浦さんが寄進された洞山良价禅師千百五十回遠忌の木主が設置されていました。山門に幕を張り、杉浦さんが用意してくださったマイクやアンプの調整を行い、演台や客席の椅子の配置などを確認しました。また、龍泉院様所蔵の「洞山過水図」の掛軸を本堂に向かって左側に掛け、その前に香台設置しました。
さらに、小畑代表が「花ヒロ」さんに注文されたスタンド生花一対と大きな盛花が届きましたので、スタンド生花一対は演台の後に置き、演台の右横に花台に白のクロスを掛け、その上に盛花を置くと、本堂は一瞬にして素晴らしい講演会場へと変身しました。これで前日の設営は終了し、後は翌日の本番を迎えることだけになりました。
2.記念講演当日の動向
10月30日午前9時に50周年記念実行委員は本堂に集合し、行動計画について打ち合わせ、確認を行った後に、「洞山良价禅師千百五十回遠忌」報恩の坐禅を一炷行い、その後、記念法要を行いました。
記念法要が終わると共に、午後からの「記念講演」の会場設営に取り掛かりました。椅子を並べ、演台や盛花をセットし、マイクやスピーカーの調整などが行われました。昼食タイムとなり、小畑代表がご用意くださった「なだ万」の豪華なお弁当をいただきました。「記念法要」の参加者が想定より多かったので、お弁当が足りなくなり、急遽、相澤さんがコンビニまでお弁当を仕入れに行ってもらうことになりました(このような事柄はイベントではよく出くわすものです)。
昼食を済ませてから来場者の受付と会場への案内、ビデオカメラの設置やマイク・スピーカーの調整が行われ、午後1時からの記念講演の開始を待ちました。
司会役の小畑二郎さんの開会の辞で記念講演が始まりました。まず椎名老師のご挨拶と石井修道先生のご紹介があり、次いで石井先生のご講演「洞山良价禅師の千百五十回遠忌に想う」に移りました。
3.十方住持制の中国と本山制度の日本
最初に洞山良价禅師の遠忌について、日本曹洞宗ではほとんど行われたことはなく、今回の龍泉院で「洞山良价禅師千百五十回遠忌」を行うのは、非常に貴重な行事であると述べられました。
次に中国と日本の禅宗寺院の違いについて述べられました。
日本では本山制度があり、道元禅師や瑩山禅師の遠忌が行われるが、中国では十方住持制のため、人には宗派があるが、寺院には宗派がなく、新住持を迎えるには、その僧の法系や門派は問いません。従って道元禅師が修行された天童山景徳禅寺は、代々臨済宗の方が住持となっていましたが、たまたま道元禅師が天童山入られて時、曹洞宗の如浄禅師が住持を務めておられたのです。曹洞宗の方が天童山に住持になられたのは非常にまれな事でしたが、如浄禅師の法を嗣がれた道元禅師は、曹洞宗の宗派に入ることになったのです。
このように中国のお寺は、住持する方によって宗派が変わるのですが、日本ではそのようなことはありません。永平寺が曹洞宗から臨済宗に代わるようなことは絶対にあり得ません。
次に曹洞宗という呼称についてのお話がありました。
曹洞宗の「曹」は洞山禅師の法嗣の曹山本寂禅師の曹であり、「洞」は洞山禅師の洞です。普通ならば洞曹(Dong cao)と言うところを曹洞(Cao dong)と言うのは、『祖庭事苑』によれば、語便に由るものであると書かれています。なお語便とは、辞書で確かめられないので、語呂が良いというほどの意味としておきます。
4.無情説法を聞くには
洞山が上堂などで述べられた言葉をまとめた語録は、唐や宋の時代には編集された形跡はなく、現在ある『洞山悟本大師語録』は明代にまとめられたものです。洞山禅師の言葉をあつかった最も古いものは、952年に成立した『祖堂集』で、現在は洞山を研究するには『祖堂集』が最も重視されています。
『祖堂集』巻16「南泉普願」章によれば、洞山良价禅師の師の雲厳曇晟禅師は藥山惟儼禅師のもとで、異類中行について悟れなかったことが述べられています。その雲厳さんに師事した洞山さんは、長年の懸案だった無情説法について質問すると、「わしの説法さえ聞けなくて、どうして無情の説法を聞くことができようか」と言われ、無情説法は耳で聴こうとしても絶対にわからない、眼で無情が説法しているのを聞いて、はじめて真実を悟るのです。
石井先生は、耳をそばだててきこうとするのが「聴」で、自ずからきこえてくるのが「聞」であると聴と聞の違いを教えて下さいました。
5.洞山過水の大悟とは
次に洞山良价禅師が本当の悟りを開かれた様子についてのお話がありました。師の雲厳さんの遷化に臨んだ時、洞山さんが、「ある人から『あなたは師の法を嗣ぎましたか』と問われたら、どのように答えたよろしいでしょうか」と雲厳さんに問うと、雲厳さんは、「その者に『このほかならぬありのまま男がそうだ(只這箇漢是)』と答えなさい」と言われました。洞山さんはこの一句の意味が分からないので黙り込んでしまいましたので、雲厳さんはその意味するところを言葉で教えてやろうとしましたが、洞山さんはそれを拒否されたのです。
結局、洞山さんは雲厳さんに悟を認められることなく、雲厳さんと別れることになりました。雲厳さんの三回忌を済ませて、神山僧密師伯と潙山へ行く途中、大河を渡ろうした時、河の途中で水に映ったわが姿を見て、雲厳さんの言われた『このほかならぬありのまま男がそうだ』の意味を悟ることができたのです。
大悟して大声で笑いだした洞山を見て、兄弟子の密師伯が「どうしたのだ」と問うと、洞山さんは、「雲厳先師のお導きのおかげを体得することができました」と答えました。そうすると密師伯は、「もしそうならば、悟った内容を言葉であらわせ」と言うのです(この部分は『祖堂集』にしかないそうです)。そこで洞山さんは「過去水の偈」を詠うのです。
切忌随他覓、迢迢与我疎。我今独自往、処処得逢渠。
渠今正是我、我今不是渠。応須与麼会、方得契如如。
この偈には、三人称の字が「他」と「渠」の二つ使われていますが、この二つは区別しなければなりません。「他」は川面に映ったおのれの姿、「渠」は真実の自己(本当の自分)です。
川面に映ったおのれの姿に向って、本当の自分を絶対に求めてはならない。もし求めればはるかに本当の自分と疎遠になるばかりだ。私は今ひとりで歩いている時には、真実の自己(本当の自分)に逢うことができる。しかし、真実が先に出てくればよいが、俺が俺がという我が出てくるならば、それは本当の自分ではない。このように理解して始めて如如の世界とピッタリと一つになることができるのです。
(参考資料)洞山さんの悟について、『語録の言葉』(小川隆著 禅文化研究所)では、次のように述べています。
今この瞬間「渠」はまさしく「我」そのものだ、だが「我」はまた決して「渠」ではありえない。「我」(現実態の自己)と「渠」(本来性の自己)、その両社は常に一体でありながら、また常に別物であって、その不一不異のところが、まさに「如如」に外ならぬ、というのである。(中略)馬祖禅が現実態の自己そのままの肯定を基調とするのに対し、石頭系の禅では、現実態と等置されず、さりとて現実態と離れて存在しえぬ、本来性の自己が志向されていた。
6.悟に安住しない禅
『祖堂集』の雲厳曇晟の章には、以上の話に続けて次のような後日談があります。ある人が洞山に問うた、「雲厳が『このほかならぬありのままの男がそうだ』といわれましたが、その意味は何でしょうか」。洞山、「私は当初、すんでのところでそのまま肯うところであったが、そうせずに済んだ(某甲当処洎錯承当)」。即ち、現実態の自己をありのままに肯って、それで良しとする見解に、自分ももう少しで安住するところであったというのです。
大河の「彼岸」と「此岸」、迷いと悟の間のぎりぎりの一線で、辛くも踏みとどまったというのです。
この言葉が洞山の禅の特質をよく表していると思います。曹洞禅の特質は納まり返らない禅ということができます。道元禅師も「八九成」という言葉を使われますが、十という完成された姿ではなく、十をも超えた動的なところに価値を見出すのが曹洞禅の特長であると思います。
次に洞山さんが雲厳さんのためにお斎を設けていた時の話です。ある僧が洞山さんに問いました、「和尚さんは雲厳さんのところで、どんな指示を得ましたか」。洞山は、「私は雲厳さんの下にいたけれども、雲厳さんの指示は受けなかった」。僧は、「雲厳さんの指示を受けない以上、またお斎を設けてどうするのですか」。洞山は、「雲厳の指示を受けないけれども、敢えて雲厳にそむきもしない」。
また別のお斎の時に、僧が洞山に問うた、「和尚さまは雲厳さんのためにお斎を設けるのは、一体、雲厳を認めるのでしょうか」。洞山は、「全部認めれば、途端に雲厳にそむくことになる」。この話を持ち出して、ある僧が安国に問うた、「全部認めることが、どうしてそむくことになるのですか」。安国は、「金の屑は貴いけれども、眼に落ちると翳となす」と。
どんなに素晴らしい金でも、眼に入ってしまえばはっきりと見えなくなる。全部認めないところにこそ、雲厳さんの禅を受け継いだ洞山良价禅師の見方がある。雲厳さんは悟れなかったと言いましたが、「悟」という世界に落ち着いてしまうと、そこでストップしてしまう。むしろ悟にとどまらないことこそ、曹洞宗を開かれた洞山良价禅師の素晴らしさがあります。それを道元禅師は「仏向上事」の巻で述べられています。
「仏向上事」とは、仏の上を歩いて行くことです。「仏向上事」というのは、仏で終わってはいけない。仏に到りても更に仏の上を行くところに、「仏向上事」という考え方があるのです。
洞山良价禅師の素晴らしさは、やはり、最終ゴールさえも更に一歩上に登ろうとするところ、無限の可能性を追求して行くところに、洞山禅師さんの素晴らしさがあると思います。
以上が石井修道先生のお話でした。石井修道先生の記念講演が終わり、休憩となりました。記念講演が終わった時点での参加者は85名に達していました。(五十嵐記)
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