今月の提唱
『正法眼藏』「阿羅漢」の巻(1)
諸漏已盡、無復煩悩、逮得己利、盡諸有結、心得自在。
これ大阿羅漢なり、學佛者の極果なり。第四果となつく、佛阿羅漢なり、
諸漏は没柄破水杓なり。用来すてに多時なりといふとも、已盡は水杓の渾身跳出なり。逮得己利は、頂●(寧+頁)に出入するなり。盡諸有結は、盡十方界不曾蔵なり。心得自在の形段、これを高処自高平、低処自低平と参究す。このゆゑに墻壁瓦礫あり。自在といふは、心也全機現なり。無復煩悩は、未生煩悩なり、煩悩被煩悩礙をいふ。
阿羅漢の神通智慧、禅定説法、化導放光等、さらに外道天魔等の論にひとしかるへからす。見百佛世界等の論、かならす凡夫の見解に準すへからす。将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡の道理なり。入涅槃は、阿羅漢の入拳頭裏の行業なり。このゆゑに涅槃妙心なり、無廻避処なり。入鼻孔の阿羅漢を、眞阿羅漢とす、いまた鼻孔に出入せさるは、阿羅漢あらす。
今月の所感
「春秋」の巻のご提唱が先月で終り、今月から「阿羅漢」の巻のご提唱が始まりました。
阿羅漢とはいわゆる小乗仏教の聖者を指すことばです。阿羅漢はサンスクリット語のarahatを音写したことばで、意訳して応供とも言われます。
佛を修学することが既に成って、学ぶべきところなく、世の供養を受けるに応ずる位にいたった者というほどの意です。即ち、世の供養を受けるから応供であり、既に学ぶべきところが無いから無学果、あるいは仏道修行の四つの段階(預流果・一来果・不還果・無学果)の最高位として、四果とも名付けられています。
ところで、大乗仏教では阿羅漢道を批判して菩薩道を打ち立てています。道元禅師はいったいこの「阿羅漢」の巻で、そのズレをどのように処理して行くのでしょうか。じっくりとご老師のご提唱を拝聴して行きましょう。
最初に『法華経』「序品第一」の阿羅漢について説かれた四言五句「諸漏已盡、無復煩悩、逮得己利、盡諸有結、心得自在。」が述べられています。
諸々の煩悩はすでに尽き、また心に煩いなく、よく自利をとらえて、諸々の束縛をなくしたならば、心は自在になることができる。これが大いなる阿羅漢であり、仏法を学ぶ者の最高に極まるところであると、まず阿羅漢についての定義を下しています。
この後、道元禅師は「諸漏已盡、無復煩悩、逮得己利、盡諸有結、心得自在。」について、句ごとに綿密な解釈を述べられていますが、この箇所はカットして次に進みます。
次に阿羅漢が修学で得たところの能力について語られています。阿羅漢の身につけた神通力や智慧や禅定や説法、あるいは化導や放光等は、全く外道や天魔などが論ずるところとは異なるし、阿羅漢が百仏の世界を見るなどということが、凡夫のもつ見解とは異なるものだと、道元禅師は述べられています。阿羅漢が修学で得たものは、我々の見解では測れないものなのです。
道元禅師が阿羅漢と凡夫の見解の違いを著すために、「将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡の道理なり(胡は鬚赤しと将謂いしに、更に赤鬚の胡有りの道理なり)。」という面白い表現をしています。この句の意には、この胡人だけが赤ひげだとばかり思っていたら、なんとさらに赤ひげの胡人がいた。本場の赤ひげのインド人(例えば達磨)は俺だけだと思っていたら、なんともう一人同類がいたわい、という意味です。凡夫の阿羅漢についての思い違いや誤解について、このような例を引いて述べておられるのです。
次に阿羅漢が涅槃に入ることは、自分のにぎり拳に入る行であると述べられています。自分のにぎり拳に入るとは、おのれ自身になりきる行であると、ご老師は説明されました。
また道元禅師は、おのれ自身になりきる行が、正法眼蔵涅槃妙心、即ち仏法そのものであると述べられ、さらに自分の鼻孔入る、即ち自己の正体に入り、阿羅漢が阿羅漢になりきることが、真の阿羅漢である。だから未だ阿羅漢になりきれないものは、阿羅漢とは言わないのであると、道元禅師はキッパリと結んでおられます。
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