「今月の講義を聴いての感想」
参禅会 五十嵐嗣郎
今月の提唱
『正法眼藏』「禮拜得髄」の巻(3)
しかあるに不聞佛法の愚痴のたぐひおもはくは、われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず、われは久修練行なり、得法の晩學を拝すべからず、われは師號に署せり、師號なきを拝すべからず、われは法務司なり、得法の餘僧を拝すべからず、われは僧正司なり、得法の俗男俗女を拝すべからず、われは三賢十聖なり、得法せりとも、比丘尼等を禮拝すべからず、われは帝胤なり、得法なりとも臣家相門を拝すべからずといふ。かくのごとくの痴人、いたづらに父國をはなれて、佗國の道路に●(趻-今+令)跰するによりて、佛道を見聞せざるなり。
むかし唐朝趙州眞際大師、こころをおこして發足行脚せしちなみにいふ、たとひ七歳なりともわれよりも勝ならばわれかれにとふべし。たとひ百歳なりともわれよりも劣ならばわれかれををしふべし。七歳に問法せんとき、老漢禮拝すべきなり。奇夷の志炁なり、古佛の心術なり。得道得法の比丘尼出世せるとき、求法參學の比丘僧、その會に投じて禮拝問法するは、參學勝躅なり。たとへば渇に飲にあふがごとくなるべし。
今月の所感
前回のご提唱では、仏法にはめったに出会えないものであり、仏法のお悟の言葉を述べてくださる方に出会うには、その方がどこの生まれだとか、顔つきがどうだとかなどは、一切関係ない。仏法の智慧・般若の智慧のある人に出会ったならば、毎日、朝昼夕の三回、礼拝し、敬い奉り、その行為が煩わしいとか面倒だとかという思いを持ってはダメであると示されていました。では今月のご提唱を見て行きましょう。
「しかあるに不聞佛法の愚痴のたぐひおもはくは」。
ところが釈尊の教を聞いたことのない愚かな人々が考える中には、こんなものがある。例として、
「われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず」。
自分はもう立派なお坊さんであるから、自分より若いお坊さんが法を得たとしても、礼拝するなんてことはすべきではない、という連中がいる。また、
「われは久修練行なり、得法の晩學を拝すべからず」。
自分は長く修行してきた大ベテランだから、ペーペーの後輩がいくら法を得たと云っても、礼拝すべきではない、という連中がいる。また、
「われは師號に署せり、師號なきを拝すべからず、われは法務司なり、得法の餘僧を拝すべからず」。
自分は大師号とか禅師号などの称号を頂いている。だからそんな栄誉を持たない者を礼拝すべきではない、という連中がいる。また、
「われは僧正司なり、得法の俗男俗女を拝すべからず」。
自分は僧正司(大僧正)の地位にあるから、俗世間の人が仮に法を得たとしても、礼拝すべきでない、という連中がいる。また、
「われは三賢十聖なり、得法せりとも、比丘尼等を禮拝すべからず」。
自分は菩薩としての三賢あるいは十聖という境涯に達している。比丘尼等が仮に法を得たとしても、礼拝すべきではない、という連中がいる。また、
「われは帝胤なり、得法なりとも臣家相門を拝すべからずといふ」。
自分は皇族の子孫であるから、家臣や大臣が仮に法を得たとしても、礼拝すべきではない、という連中がいる。
「かくのごとくの痴人、いたづらに父國をはなれて、佗國の道路に●(趻-今+令)跰するによりて、佛道を見聞せざるなり」。
このような愚かな連中は、ただ徒に父国、即ち自分の生まれた故郷を離れて、他国の道をうろついているので、本当の仏道を見聞していない。これは言うまでもなく、法華経の「長者窮子」例を指しているわけです。
仏道修行を行じてゆく場合、たとえ自分にどのような自信があっても、法を得た人には、その法を得たという事実だけを基準にして礼拝し、その教えを聞くべきである、ということ道元禅師はここで強調されているのでしょう。その考えを推し進める趙州さんのお話しが次に続きます。
「むかし唐朝趙州眞際大師、こころをおこして發足行脚せしちなみにいふ、たとひ七歳なりともわれよりも勝ならばわれかれにとふべし。たとひ百歳なりともわれよりも劣ならばわれかれををしふべし」。
趙州真際大師は778年から897年の唐末の方で、120歳まで生きた方です。40歳で出家し、40年間修業し、最後の40年間を趙州の観音院に住持し修行僧を指導しました。観音院での説法は『趙州語録』三巻として残っています。
この趙州さんが菩提心を起こして行脚・修行に上った時、「例え7つの子供であっても、自分より勝れたところがあったならば、質問して教えてもらう」「例え100歳の老人であっても、自分より劣っていたならば、その老人に教えてあげよう」という志を立てて実践したのです。
「七歳に問法せんとき、老漢禮拝すべきなり。奇夷の志炁なり、古佛の心術なり」。
7歳の子供に法を聞くときには、こちらが老人であっても、礼拝すべきであり、その意気込みは非常に珍しく、めったにないことであり、真の祖師の心構えである。
「得道得法の比丘尼出世せるとき、求法參學の比丘僧、その會に投じて禮拝問法するは、參學勝躅なり。たとへば渇に飲にあふがごとくなるべし」。
釈尊の教を身につけ、釈尊の説かれた法を身につけた尼僧さんが、大きな寺院の住職となった場合には、男子の僧侶は、その門下生となって一心に礼拝したり、仏法の教えを頂くということは、仏道を学上において、昔から沢山の僧侶が実践してきた勝れた行いなのである。
なぜそうするのかというと、真実の教えをできる人は非常に少ない。だからそれがたとえ尼僧さんであっても、真実を知っている人がいると聞けば、そぐそこに出かけて行って、仏道を学んでいた。そのことは「たとへば渇に飲にあふがごとくなるべし」、非常にのどの渇いた人が、飲み物に出会って非常に喜ぶというのと、正に同じようなことなのである。
今月の「禮拜得髄」の巻は以上ですが、ご提唱の最後に明石方丈様は趙州の「たとひ七歳なりとも・・・・」に関して、次のようなお話をなされました。
我々は日常生活の中で、人の話を雑に聞くとか、人に雑に接するなど、人を軽んずることがあるのではないか。また、ものをうまくできない者同士が、群れて自分たちの権利を守ろうとすることがあるのではないか。
このような仏道に反することをしている場合、どのようにすれば仏道に目覚めることができるのか。それは趙州の「たとひ七歳なりとも・・・・」とあるように、仮に7つの子供であっても、その子供が自分より勝れたところがあれば、質問して教えてもらう。また「七歳に問法せんとき、老漢禮拝すべきなり」とあるように、7歳の子供に法を聞くときは、こちらが歳をとっていても礼拝する。このような謙虚な心掛けに努めれば、仏道に目覚め、人を軽んずることは無くなるのではないかと述べられました。
今月のお知らせ
3月17日(月)に龍泉院参禅会の代表を34年間務めてこられ、龍泉院および参禅会へ多大な有形・無形の貢献をしてくださいました小畑節朗様がお亡くなりになられました。
最近は定例参禅会もお休みされることがあり、身体のお具合は如何されておられるかと気にはなっていましたが、まさかこれほど早く旅立たれるとは思ってもいませんでした。三月の定例参禅会のご提唱の冒頭、全員で黙祷し小畑さんのご冥福をお祈りいたしました。
松戸市常盤平の「ライフケアメモリイプレス常盤平」で3月25日(火)にお通夜が行われ、参禅会からは約30名が参列いたしました。26日(水)のご葬儀は明石方丈様が導師を務められ、椎名老師もお見えになられ、悲しみのうちにお別れをいたしました。
齋藤年番幹事からのお知らせ
・3月25日(火)午後6時から小畑さんのお通夜、26日(水)午前8時半からご葬儀があります。
・4月8日(火)午後2時から降誕会を行います。配役は杉浦・河本・齋藤・五十嵐(敬称略)。本堂に集合し大悲殿は使わないようにしてください。
河本年番幹事からのお知らせ
・小畑さんの亡くなる三日前にお逢いしましたが、あまり元気がないように見受けられました。
杉浦『明珠』編集委員長からのお知らせ
・『明珠』83号が完成しました。先月に83号のゲラをお見せしたところ、「いい出来ですね」とのお言葉を頂きました。
・小畑さんは松戸市のセントケアという小規模な施設に5ヶ月間入っておられました。河本さんのお宅の近くなので、河本さんはよくお手伝いに行かれていました。
・3月16日から体調を崩され、17日に救急車で病院に入院されましたが、そこでお亡くなりになられました。
・小畑さんのご子息や娘さんからお電話を頂き、「父の最後は微笑むように穏やかでした」と述べられていました。
・ご葬儀等の受付は年番幹事と杉浦と五十嵐の4人で担当します。
明石方丈様からのお知らせ
・『明珠』83号の作成ご苦労様でした。
・『明珠』には小畑さんの経歴の記事がありますので、お読みください。
今月の司会者 齋藤正好
今月の参加者 14名
来月の司会者 齋藤正好